ジャンル分けの危険

音楽をジャンル分けするのは

曲を作り出したり演奏したりする側にとってはどうでも良い。

むしろカテゴライズされジャンル分けされた方が迷惑だったりする。

自分が最もインスパイアされた音楽に共通するのはカテゴリーに当てはまらない時代を壊してきた音。そして音楽への誠実さ。そこにはエゴや虚栄や優越や年功序列など感じない。

世界中の民族がそれぞれの地域や文化の中で

常に相互に影響をされながら古くて新しい音や新しく古い音を作り出しているから面白い。

そこには伝統を重んじたり大切にしたり歴史的な意味合いを感じながら、自分より先の時代に作り出した全ての音楽家へのリスペクトが常にあって然るべきなのだ。

新しいと思っていた音やリズムにも螺旋状に影響されたエッセンスが時にアンチテーゼであったり、敢えてモチーフとして表現されていたり、相乗的に油絵のように塗り重ねられている。

ダンスミュージックを例にすれば毎年の様に新しい名称のジャンルが存在する、下世話な例だとキャバクラやパチンコ店が、定期的に新しい客を獲得する為に店の名前を変え新装開店するのと同様、あくまでも手法であってそれは消費するビジネス上に有益なジャンル分けなだけで本質は何も変わらない。

作り手よりも使用する側がジャンル分けすることで都合が良いことが多いからだ。

Jazz、Rock、ラテン、HipHop、レゲエ、クラシック、ヒーリングミュージック、J-POP、K-POPどれも表現者にはどうでもよく、意識すればする程、創造性は失われる危険を伴う。

特に海外のアーティストを見ているとジャンル分けをあまり意識していないにも関わらず、日本ではこのジャンル分けが自分たちの首を絞めてしまっているだけではなく、誰かの真似をすることから脱却できない大きな障害になることにあまり気づいていない。一方でジャンルの傘の下、既得権で自己肯定感を味わい酔いしれている者も少なくない。

文化を生み出す力のある芸術は、いつの時代もビジネスとは裏腹に純度の高い創造性とメッセージ性だけにプライオリティを持ち後世に影響を与えてきた。

ジャンルを意識することは手法として自由だが、その傘の中で何かを生み出そうとすることは、そのジャンルの本来ある精神からは反しているのだろう。なぜなら後付けされたジャンルを当に創成してきたミュージシャンや芸術家は既存のジャンルを常に壊そうとして戦ってきただけで、ジャンルの頂点に立とうなど考えもしていない。音楽に限らず日本の中でカテゴライズが好きな人が多い。それは特定の主観によってある種ピラミッド型の社会を形成するのに便利な道具に過ぎないからなのだ。


https://youtu.be/gxFIGGrhRqI