30日 9月 2023
故人が夢に現れても 亡くなって3年は 言葉を話さない 叔父が昔からの 言伝えを教えてくれた 振り返ると どれも確かに当たっている お彼岸を迎え 兄が夢に現れ 何やら俺に語り出した。 他界して 3年と7ヶ月 やはり 叔父の助言は 当たっていた まだ3年7ヶ月か.... もっともっと 経った気もするが もう3年7ヶ月か…. と感じる日もある。 これは2020年に書いた詩。...
28日 8月 2023
アメリカ・NYブロンクスで発祥したHipHopの歴史から今年で50年を祝い、アメリカではストリートからスタジアムまで歴代活躍してきたラッパーやダンサーが勢揃いしパフォーマンスを展開していたようだ。 日本でもヒップホップの恩恵を受けて活動しているDJやラッパーたちもそれぞれ自分の思いを表現している。...
11日 7月 2023
90年代インターネットの存在は未来に大きく夢を抱かせてくれた。...
05日 6月 2023
音楽をジャンル分けするのは 曲を作り出したり演奏したりする側にとってはどうでも良い。 むしろカテゴライズされジャンル分けされた方が迷惑だったりする。 自分が最もインスパイアされた音楽に共通するのはカテゴリーに当てはまらない時代を壊してきた音。そして音楽への誠実さ。そこにはエゴや虚栄や優越や年功序列など感じない。...
22日 5月 2023
「気を入れてってくれ」 帰り際、毎日やっていたことを忘れそうになった日 兄は、そう言ってぼくの背中を止めた。 高校時代、ぼくが空手の道場へ通い始めた頃 兄は、弟を自慢気に応援してくれた。...
12日 5月 2023
ぼくは太平洋戦争が終わってまだ18年しか経たない時に生まれ育った。所謂「戦争を知らない子どもたち」だ。今にして思えば、まだ18年しか経たない世の中で元気に子どもらしく安全に暮らして来れた事に感謝と驚きさえ感じる。日本は高度経済成長と共に物の価値観が大きく変化し豊かな時代になったはず。でも現代に至るまで世界を見渡せば、どこかで戦争は絶えず起きている。それどころか日本も防衛費を倍にするとか徴兵制が必要だとか現実的に逆方向へ舵を切り出してしまっている。世界で唯一の被爆国でありながら平和の意味を世界へ発信できているのだろうか。子どもの頃は20年なんて程遠い時間に感じてたけど、大人になればなるほど20年なんて最近の範疇だ。じゃあ20年後に生きているかと想像すればそれは難しい。人生なんて虫なんかと同じで意味などない。たまたまそこに居て死んで行く。だから生きているうちに未来に役に立つ何かを少しだけでも残せたらと思う。それは生きてきた証ではなく形であり歴史なんじゃないかな。未来の子どもたちが戦争に巻き込まれ苦しい思いだけはさせたくない。戦争を知らない世代の人間が戦争を再び始めようとしている。絶対にあってはらならないことを。
27日 2月 2023
3年に1度くらいだろうか 訪れたくなる場所がある。 千葉県で標高が3番目に高い山 清澄妙見山にある清澄寺。 20歳の頃に初めて行って以来 ここに来る度に心が落ち着く。 高校時代に通い始めた 極真会館の創立者と言えば 有名な大山倍達館長。 彼が1年以上山籠りをした場所も この山だったことは後で知る。 高校時代には修行の一環で 自分も山籠りをしようと...
24日 2月 2023
バナナベンダーズ時代から気にかけてくれているCMの音楽プロデューサーから連絡があり録音スタジオへ呼ばれ「歌って欲しいメロディがあるから」と。「歌ですか?ラップならやりますけど歌はちょっと....」とお断りしようとすると「大丈夫!声のキャラクターが欲しいから」とぼくの特徴ある声が求められた。あとは以前からぼくに是非紹介したいミュージシャンで気が合うと思うからと、そのCM音楽を作曲編曲した人に会わせてくれた。 ムーンライダーズの岡田徹さんだった。 そしてプレイステーション・ソフト「クラッシュバンディクー」のCM制作現場。 歌は15秒30秒用のCMだけだったのでワンフレーズを何度か歌って終了だけど、後にソフトが大ヒットするなんてまだ誰も分からなかった。 「クラッシュバンディクー」はシリーズ化されサントラやゲーム内でも歌が使われる事になるので、岡田さんとチームを組み、SCSCZIPS(スカスカジップス)【スカ風のサウンドにSCSIとZIPドライブと今では化石となったデジタルツールを掛け合わせた名前】というユニットとして急遽連日のスタジオワーク。 ぼくは岡田さんのスタジオで、岡田さんが音作りをする傍で作詞。そして書き上げるとすぐに歌やラップを吹き込む。互いの役割分担作業がスムーズに、締切に追われながらも気持ち良く進行した。 その時の事は後々まで良く岡田さんと思い出して語ったものです。 岡田さんとはそれ以来何かとご一緒させてもらいました。 Eテレの「天才ビットくん」で岡田さんがプロデュースするBレーベルでの制作や、アイドルの立ち上げ。試験的に音を交換しながら新たなアイディアを模索したり。デモもたくさん作った。 ぼくの担当する曲でもミュージシャンとして快くアコーディオンやキーボードを演奏してくれた。 時には、 ただ昼下がりに横浜の海を見ながら次にやりたい事を語り合ったり、お洒落な店を見つけると一緒に行ってみたり。カメラ好きの岡田さんは良く写真も撮っていたなぁ。 60代や70代の若さで力を与えてくれた先輩たちが旅立つ度に心が空っぽになる。自分の歳をあまり気にした事なく生きてきたけど、あと10年くらいの寿命かもと想像する。 岡田さんとは特別に親しくさせてもらっていただけに胸に空いた大きな穴は、なかなか埋まりそうもない。 いつも優しい人、優しい音でした。 ありがとうございました。 いつか来世で会いましょう。 ↓引っ越す時に譲ってくれたバラフォンは形見となってしまった。
20日 1月 2023
28年前の1月17日は忘れる事ができない阪神淡路大震災のあった日。FM802でインディーズから初めてヘヴィローテーション曲が選ばれた。事務所もレコード会社のバックアップもない曲を選曲するにあたっては賛否両論あり一筋縄ではなかったと聞く。しかし関西のリスナーからの声が力となり反映された。「パリッ!とオバさん」。深夜番組のDJの中村義昭氏とは古くからの付き合い。TD後マスタリング前に真っ先にDATを渡して聴いてもらったのがきっかけだった。発売日前から何処よりも先にFMでOAしてくれた。毎週OAに乗せてくれ日に日にリクエストが届くようになり「工藤ちゃん、大阪来ないとまずいよ!」と声をかけてくれた。「大阪行く金なんかないよ」と即答。だが数ヶ月後には招待され行ってみたら街を歩いているだけで声をかけられるほど有名になっていた。FMから波及しレコード店、TV番組、有線放送に、街頭のウルトラビジョン、想像していないほどに曲が浸透していた事には驚いた。その結果1995年1月のヘヴィローテーション曲に選ばれた。そして1/17大震災でヘヴィローテーションは打切りとなった。オバさんの髪型で笑ってられる状況どころではない不適切な曲となってしまった。 それから5年が経ち以前お世話になっていたCM制作会社のディレクターが声をかけてくれた。服部克久さんプロデュースで震災復興支援への感謝と来訪を呼びかけたキャンペーン・ソングを小錦さんがメイン・キャラクターで作りたいからと、作詞作曲アレンジをお願いされた。 作詞は小錦さん自身が書き、作曲も一緒に時間をかけた。阪神淡路大震災の年に無力を感じていた思いがこの曲の制作で果たされる気がした。服部克久さんに曲の方向を伝えストリングス・アレンジをお願いした。今思えば何処のムジナかわからない若僧の勝手なリクエストを快く聞いてくれた懐の深さに器の違いを感じる。 1995年からモヤモヤしていた思いを全て曲にぶつけ力が入り過ぎていたかもしれない。ディレクターとも制作現場でぶつかる事もあった。携われた事に感謝は忘れない。今は廃盤になってしまったようで残念なので、ここに紹介しちゃいます。 https://youtu.be/XO51HUFnc0Qふ
06日 12月 2022
フロイトによれば人は誰でも毎日夢を見ているらしい。ただ朝起きた時にそれを思い出せるか思い出せないかだけなのだと。 自分は物心ついた頃から夢を見るのが好きだった。そして初老になった今も夢を見るのが楽しい。故に寝るのが好きなのかもしれない。...