格差と分断を招く世の中

世代論は好きじゃない事を前提に、世の中を見回すと至る所で格差や分断が顕著だと感じる話。


高度経済成長期には向こう三軒両隣の家族が一台のテレビで相撲や野球中継を楽しんだ。自分にはその光景は親から聞いた話だけど、ぼくの子どもの頃は一家に一台の家具調の四脚のテレビを家族揃って歌番組やバラエティやドラマを観て笑ったり泣いたりしていたものだ。

番組は時間帯によって今も多少は考慮されているのかもしれないが、今よりもっと作り手に倫理観が求められていた気もする。

幼児から爺ちゃん婆ちゃんまで楽しんで観てたのだからね。

時代と共に一部屋に一台になり、今はテレビよりネットワークで1人ずつ年齢や興味に応じたプログラムを好きな時間に楽しめる。便利な反面、家族が過ごす時間は分断される。


テレビや有名人のコメントを鵜呑みにする人と多くの文献や読書をする人との格差(一般に前者は自分の意見を持たないから別だけど)、公園の敷地内に喫煙スペースを巡っては有無賛否分断、脱マスクかマスク信者か分断、ワクチン接種か反ワクチンか、戦争反対かそうでもないか、脱原発か推進か、死刑廃止か現行法か、再生可能エネルギーか化石燃料か、、、、


双方の意見を単に多数決ではなく取りまとめるのが多様性であり政治の役割だけど、政治家がそもそも分断を煽ってるわけだから世の中が滅茶苦茶になるわけだよね。


子どもたちを見ていると年齢や性別や地域や家庭環境に関係なく友だちになったり喧嘩をしてもまたすぐ仲直りしたり大人よりずっと柔軟に生きようとしている。


よく今の若者はとか、昔はどうだったとか親父らが自慢気に説教したがるが、それこそ今も昔もいつの時代も言われている慣用句だ。ぼくらの少年時代と今の子どもたち、

本質は何もかわらないはずだと思う。

同窓会で四半世紀振りに会った恩師に聞いた事がある。教え子は君達の時代も今の子たちも変わらない、と。


例えば水と油を調和させてドレッシングをかけると生野菜が美味く感じるけど、そもそも何もかけなければ美味いと感じなくなっている事が問題かもしれない。


物事全ての発端を掘り下げてみると本質が分かるはずなんだけど目先や周りに流されているから分断や格差にストレスを感じてしまうのではないかねぇ。


明日で59歳だ。男の厄年がまたやって来た。力を入れ過ぎないよう気をつけよう。