音楽は脳裏に焼き付くポジのようなもの



音楽は脳裏に焼き付くポジのようなもの(ネガでも良いが)。


1/17の阪神淡路大震災の起きた日に近づくと、ぼくの曲がラジオから流れていた事を思い出すと大阪に住む人がSNSで呟いていた。


4才くらいだったか、父はよく寝かしつけてくれる時にはチャイコフスキーの“スラブ行進曲”を、日曜日の朝にはベートーヴェンの“交響曲第6番”に針を落としてくれた。

50年以上経つ今もこれらを聴くとその時々の景色が浮かぶ。


新潟の親戚の家に父と行く時、必ず父が立ち寄った音楽好きの友人の家で聴かせてもらったチャイコフスキーの”1812”は衝撃的だった。お腹を空かせたぼくに炒飯を作って出してくれた事も忘れない。以来、上越線の車窓からの田園風景を眺めるとこの曲が頭の中で流れ炒飯の味が懐かしく思う。


音楽は時間や人種や身分を超えていつも新しいものだと今も実感することがある。


その時に焼きついたポジなりネガは、再生された瞬間に時間を超えて光景や臭い味まで蘇る。

歌は完璧に歌える人が心を込めず歌うより、下手でも心と命を吹き込んで歌ったものが伝わる。


不思議と思う事には必ず根拠がある。音楽は凡ゆる概念に縛られることなく自由でどんなに離れた場所へも時間と距離を超越できる。

消費される音楽も当たり前に存在するが、本来音楽は消費する為に作られるものではないのだろう。