ラップを始めたきっかけ

昔はラジオに出演すると必ず聞かれた質問。

年月を重ねて改めてその訳を自問自答してみると、理由はとてもシンプルだ。

13歳から独学でドラムを叩いていたこともあって
(とは言ってもドラムなど無かったから普段はティッシュの箱を並べて叩いていただけ)リズムには敏感だった所為もあり洋楽にラップが入るものがあると即座に反応していた。

衝撃を受けたドラマーはBillyCobham、HarveyMason、LennyWhite、みんなアフロアメリカン系の音だった。18歳位になるとその影響で徐々にR&Bやディスコサウンドに目覚めタワーレコードやウィナーズやCiscoで暇があればレコード漁りをした。

Cameo、TroubleFunk、Con Funk Shun、Starpoint、T-Connectin、Dazz Band、Midnight Star、SOS Band、Gap Band、ADC Band 、Mtume、好きな大所帯のファンクバンドにはお決まりにラップのverseが必ずと言って良いほど入っていた。

高校卒業するくらいの時期、好きだった女子に振られより一層音楽が心の拠り所になった。立ち寄ったレコード屋でジャケ買いした輸入盤LPがGrandmaster Flash &The Furious Five のThe Message。
そのあまりの衝撃で振られた事などぶっ飛んでのめり込んだ。英語の歌詞も単語もよくわからないまま耳でラップをコピーしては歌っていた。FENも良く聴いては録音していた。

これを当時のバンドで隙あらば歌っていた為、ライブハウスの客に「あの人なに?バナナの叩き売り?」と言われ、Bananavender & TheJungleFive と命名。(その前までのバンド名が何だったのか思い出せない。)
GrandmasterFlash &TheFuriousFiveのようなバンドを目指した。(当時はバンドだとばかり思っていた為、全員で演奏しながらラップをしていた。)

初めは適当な英語を真似してオリジナルのラップ曲を作って披露してたけど全く反応がないので、日本語でラップを作るように徐々に移行し、下町の風景やもんじゃ焼きをテーマにした曲であちこちコンテストに出場。バンドとして夢を目指した。MCSF(マツダ カレッジ サウンド フェスティバル)では渋谷公会堂の決戦大会まで進めたが優勝できず区切りをつける為解散。

後数年間オリジナルのラップ曲を作りまくった。

そんなある時、デモテープがフジテレビの子ども番組のスタッフの琴線に触れ、子どもたちに向けたラップ・ソングの依頼を受けた。

これがきっかけとなり初めてラップが仕事として認められた。元々ラップをしてお金をもえるなど微塵も考えてなかったけど、自分のアルバムを世の中に出せるチャンスをもらった事には大いに喜んだ。

バナナベンダーズ「廃盤」(テイチクレコード)
洒落で付けたアルバム・タイトル通り勿論今では廃盤である。

これを機にCMや番組出演の依頼が来てラジオでも自分の曲がかかるようになるとアイドルのレコーディングに呼ばれ仮歌ならず仮ラップの仕事がどこからともなくやって来る。

とは言えインペグ屋さんからの電話は時間と場所だけで何をやるのか全く知らされずただスタジオに行くと「16小節分のラップを入れてみてもらえますか?」と初めて聴く曲にその場で考えてレコーディングする。しかも歌い手本人がブースの外では待っている。

ブースの中であまり時間をかけ過ぎてしまうと
「そろそろどうですか?」と声がかかる。

こんなやり方を多い時は週に2-3回、何年も頼まれた。今思うとこの機会があったから今の自分がいると言っても過言ではない。

今は当たり前のように制作してるけど、当時ラップを希少価値として可能性を認めてくれたプロデューサーやディレクターの理解が今の自分を支えてくれている。今でも新しい事にチャレンジする度に当時の事を思い出し感謝の気持ちを忘れずにいることを心掛けている。